銀英伝ボード
再度断言しますが、「公」なき「個」などありえません。
考えてもみて下さい。個々の自由や権利が認められる社会にとって絶対に必要なものとは何でしょうか。それを認めるための共通の精神です。ではその精神はどうやって生まれるのでしょうか。自然発生するものでしょうか。否。これは人間が生まれた瞬間から親に教わり、教育システムの中で教わり、人間関係の中で教わるものです。つまりこのような公的な場から一つの公的な思想を取得し、それを常識として生きてゆくのが人間なのです。そしてこの常識を決定しているものが宗教であり政治的イデオロギーであったりするのです。個人主義であれ民主主義であれその根底には共通の精神=宗教的イデオロギーが流れています。現代の日本人にはなかなか理解できないかもしれませんが、人間は宗教(=公共の精神)からは逃れられないのです。
さくさくさんにしろのほほさんにしろ、御自分が思う幸せや「自由」は日本やアメリカでは達成可能でしょうが、中国やインド、あるいは北朝鮮ではどうだろうと考えてみて下さい。いくつかの不可能なことが見えてくるはずです。逆にそれらの国で常識であるようなことを思い浮かべてみて下さい。われわれには理解できないような事実をいくつかあげられるのではないでしょうか。常識が違うのです。宗教が違うのです。政治体制が違うのです。それゆえに個人の価値観も当然に違うのです。相対主義とは同じ常識(宗教)を持った個人間のものではありません。もし同じ常識の中で意見が食い違うならばそれは単に意見や趣味の相違であり、どこにも相対的な価値観など存在しません。問題は同じ常識を持たない時、つまりわれわれの常識で相手の常識を見ることの出来ない時、相対的な立場を必要とするのです(個人相対主義は私に言わせればモラルを失った現代の民主主義国家(とくに日本)によくみられる病理だと思います)。
思えば、ヤンにしろビュコックにしろ戦う理由を「民主主義」を守るためと書いてあったんではないですか?独裁や専制政治にみられる権威主義的な存在にに対する民主主義の理念を守るために戦ったのではないですか?けっして彼らの個人的な欲望のために戦ったわけではないはずです。個人の自由を守るためにそれを可能にする民主共和政体とその政治理念を守ろうとしたはずです。かれらは「公」なき「個」など想定していません。民主主義対専制政治というイデオロギー的な相対性こそが銀英伝の最大のテーマのはずです。そしてヤンも言っていたように、もっとも大切なのは相対性と同じ数だけ正義がある、と言うことでしょう。
ながながと書きましたが、やはり現代の日本人にはわかりにくい部分が多いと思います。というのも宗教を身近に感じられないからです。これは戦後民主主義が・・・。もうしんどいのでやめます。おつかれ。
00/07/29.20:59 がんばれポンティ!?
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