銀英伝ボード
なるほど・・・
のほほさんが教えて下さった例のラインハルトの台詞で、なるほどと思わせられました。そういえばヤンは極端すぎると思えるような発言でキャゼルヌにも何か言われていたことがありましたね。これがヤンのその場の感情的発言なのか、本質(気質)なのかはわかりませんが、銀英伝に一貫してみられるヤンの特徴であると言えるのかも知れませんね。それとのほほさんが「国家」と「個人」について書かれましたが、私もその内容についてはおおむね賛成です。ただ私は「国家=公」が存在するためには必ず「個人」の犠牲が必要になるという部分はどんな社会においても真理たるものだと思います。「公」からはなれた「個」は生物学的に存在しているのみであり、社会的存在ではありません。そもそも人間の幸福やさまざまな価値観は「公」からしか取得できません。それゆえに人間は国家、あるいは社会を創った瞬間から権利を得ると同時にそれを守っていくという義務を科せられます。
ネグロポンティや戦前の日本政府などが間違えているあるいは間違ったのは、彼らの主張そのものであるというよりも、かれらの出した政策や決定に尽きると思います。ネグロポンティやジョアン・レベロ等の発言はたしかに極端かもしれませんがその意味ではヤンと変わりません。ただ、とくにレべロの場合などは国民の権利を一部禁止して帝国の言いなりになって民主主義国家としてのもっとも重要な部分を無視してヤン一人に犠牲を強いろうとしました。さらに戦前の日本の場合でも特攻隊の精神は別としてその(戦局に対する)効果と国家の利益を考えると下の下策であるといわざるをえないでしょう。つまり両者に圧倒的に不足していたものは精神的なものではなく、政策や指針を決定するための能力であると言えます。
・・・ではもし、ネグロポンティやレべロが帝国の圧力をはねのけて民主主義国家としての体裁を守るべく決定を下した時、国民はどうなるでしょうか。その答えはビュコック提督の「(若い者は国家という枠に囚われる必要はないが)十分に長く生きた自分は国家を守るために戦う」といった発言に集約されているのではないでしょうか。かれは「哀れな国家の犠牲者」なのでしょうか。目を背けてはいけない事実ではないでしょうか。この世でもっとも美しいものが「自己犠牲」であるとまでは言い切りませんが、「自己犠牲」を一方的に国家による洗脳だとか、強制はよくないとかいった不毛な議論へと誘導することは間違っているのではと思います。
00/07/26.15:29 がんばれポンティ!?
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